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火柱、核爆発の恐怖、死を覚悟 嘉手納B52墜落から50年 沖縄タイムス元記者が振り返る

  • 2018年11月17日
  • 08:52
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1968年11月19日未明、米空軍嘉手納飛行場滑走路の北側で、離陸直後のB52戦略爆撃機墜落し大破した現場
1968年11月19日未明、米空軍嘉手納飛行場滑走路の北側で、離陸直後のB52戦略爆撃機墜落し大破した現場

 火柱で未明の空が赤く染まった光景は今も忘れられない。B52が墜落した50年前に沖縄タイムス嘉手納支局の記者だった玉城眞幸さん(77)。14日、事故現場近くを訪れ、当時目にした「キノコ状の雲」の光景を思い返していた。原爆投下の写真に重なり「来るべき時がきたか」と覚悟したという。(中部報道部・宮城一彰)





 住居兼支局は嘉手納ロータリーに近く、嘉手納基地のフェンスから直線距離で百数十メートル。真っ先に脳裏をよぎったのは目と鼻の先にある知花弾薬庫だった。弾薬庫は核兵器があると言われ、B52は水爆を積んでいるとうわさされていた。





 死を覚悟して晴れ着に着替えた一家や、事故直後に降った土煙を「死の灰」と勘違いし右往左往する住民も目にした。嘉手納警察署では留置された人たちが「どうせ死ぬから出してくれ」と懇願したと聞いた。自身も妻に子どもを連れて逃げるよう訴えたが「核爆発なら逃げようがない」と返された。





 当時は核の恐怖は現実味を帯びていた。「水爆搭載が可能なB52の事故を皆、恐れていた。驚きというより『やはり』という気持ちが強かった」





 米軍は事故後、嘉手納ロータリーから知花方面へ続く県道16号を封鎖、嘉手納村の資料によると村長や村消防隊さえ現場に入れなかった。発生6時間後にやっと事故の一報を出したが、事故原因など詳細は翌日になっても発表せず。立法院や各市町村がB52撤去要求を決議しても、米軍はノーコメントを貫いた。フェンスの外から険しい表情で基地内の事故現場を見つめた玉城さんは「住民を何とも思っていなかったのだろう」と唇をかんだ。





 事故発生は「基地の即時無条件全面返還」を訴える屋良朝苗さんが行政主席選挙で当選を決めた9日後。「県民が一つになり基地反対の意思を示した直後の事故だったから、怒りが頂点に達し、本土復帰運動のうねりと併せ大きな力となった」と回想する。





 だが、県内の全市町村が配備撤回を求めたMV22オスプレイが2012年に普天間飛行場へ強行配備されるなど「今も変わらず日米両政府に沖縄の民意は無視されている」と痛感する。当時、県外の新聞記者に「沖縄の記者はもっと客観的になるべきだ」と言われ「自分は記者である前にウチナーンチュだ」と言い返したこともあった。玉城さんは「まさか50年たっても同じような状況が続くとは思いもしなかった」とつぶやいた。





 





住民16人重軽傷 住宅など365棟被害





 B52戦略爆撃機の墜落事故は1968年11月19日午前4時15分ごろ、現嘉手納町と沖縄市の境界付近にあたる嘉手納基地の滑走路北側で発生した。ベトナム戦争に向かおうとしたところ離陸に失敗して爆発炎上。一時は嘉手納弾薬庫地区から200メートルの距離にまで火が広がったという。爆風などで付近の住民16人が重軽傷を負ったほか、校舎・住宅など365棟が被害に遭った。





 B52は、嘉手納には墜落事故9カ月前の68年2月から常駐していたが、事故を機に「黒い殺し屋」と呼ばれる同機への不安と恐怖が一層高まり、当時の嘉手納村民をはじめ県民の撤去闘争が拡大。70年10月に全機が退去した。





 だが以後も台風避難などで飛来は相次ぎ、直近では2010年2月にもその姿が確認された。









 


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