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きょう米軍の無差別爆撃「10・10空襲」から74年  旧那覇市域の9割が焼失

  • 2018年10月10日
  • 09:23
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10・10空襲を振り返る(右から)長堂嘉雄さん、知念盛義さん、波平元維さん=8日、那覇市・繁多川自治会事務所
10・10空襲を振り返る(右から)長堂嘉雄さん、知念盛義さん、波平元維さん=8日、那覇市・繁多川自治会事務所

 沖縄など南西諸島が米軍の無差別爆撃に襲われた「10・10空襲」から10日で74年となった。旧防衛庁資料などによると、旧那覇市域の9割が焼失し約1500人が死傷。隣接する旧真和志村繁多川地域の人々の胸にも「沖縄戦の始まり」を実感させる惨禍として刻まれている。





 1944年10月10日朝、真和志国民学校6年の知念盛義さん(85)は姉たちと壕掘りに行く支度中だった。けたたましいごう音とともに低空飛行する米軍機の異変に慌てて近くの防空壕へ。「沖縄が攻撃されるとは、夢にも思わなかった」





 2学年上の長堂嘉雄さん(87)は同じ頃、那覇市街を見渡せるイシジャと呼ばれた高台から、爆弾の雨で一網打尽にされている那覇港や小禄飛行場を目撃。「現実味がなく、好奇心で眺めていた」と振り返る。





 繁多川には、この空襲による被害はほとんどなかったが、イシジャにあったヤギ小屋付近に1発落とされたという。





 知念さんは「珍しいコンクリート造りの小屋だったから、軍事施設と勘違いしたのだろう。米軍が入念に偵察し、軍事目標を見定めていた一方で、空に銃を向けた日本兵がいた。応戦しているつもりだったのか。むなしかった」と首を横に振った。





 琉球石灰岩で形成された自然壕が複数あった繁多川には空襲後、那覇市街から多くの人が避難した。当時5歳の波平元維(もとしげ)さん(79)は「繁多川はよそ者にも寛容な気質がある。ずっと壕で過ごせたら、その後の被害は抑えられたのではないか」と人々を壕から追い出した日本軍に怒りを込める。





 糸満市の平和の礎に刻まれた繁多川の戦死者は350人余。10・10空襲直前の人口約730人の半数近くに上り、故郷から追われ本島南部へ逃げる道のりでの犠牲が目立った。 





 長堂さんは一緒に南部を目指した「そうじん」という名の少年が心に残る。10・10空襲で親・きょうだいを失い繁多川に逃げてきた孤独な少年を長堂さん一家は受け入れたが、避難途中に砲弾の破片が首を一撃した。長堂さんは「大量の血を見て、望みはないと思った。そこに置いていくしかなかった」。





 沖縄戦やその後の収容所生活などで、知念さんは父と4人のきょうだいを、長堂さんは父を、波平さんも祖父を亡くした。





 豊富な井泉のおかげで古くから豆腐作りで栄えた繁多川で、知念さんは「大黒柱を失いながら戦後も豆腐を作り、励まし合って生活した母子家庭がいくつもあった」と思い出す。波平さんは「戦争からは何も生まれない。体験者のとてつもない苦労を、戦後世代の政治家は忘れないでほしい」と語った。(社会部・新垣綾子)


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