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母と妹の生きた証しを形に 戦災孤児、苦難を超え戸籍登載 平和の礎刻銘も

  • 2018年6月23日
  • 16:30
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孤児として生きた戦後を振り返る山川信子さん(中央)と、叔母の仲間春子さん(左)、叔父の小橋川萬三さん=20日、金武町の山川さん宅
孤児として生きた戦後を振り返る山川信子さん(中央)と、叔母の仲間春子さん(左)、叔父の小橋川萬三さん=20日、金武町の山川さん宅

 妹たちの存在を証明したい。自らに課した使命を、沖縄県金武町の山川信子さん(86)は戦後70年以上たって果たした。太平洋戦争中の1945年8月、フィリピン・ミンダナオ島の戦いで犠牲になった継母の池原ウタさん(享年38)と、8歳と5歳ぐらいだった妹のトミ子さん、敏子さん。戦後の混乱で戸籍から漏れていた3人の戸籍登載が昨年、家庭裁判所に認められた。「もう人生に後悔はない」。戦災孤児となり辛酸をなめた戦後を振り返りながら、家族の供養が節目を迎えたことをかみ締めた。(社会部・新垣綾子)





 山川さんは戦前、フィリピンに渡った旧金武村伊芸出身の父福助さんと母カマさんの間に生まれた。しかし、カマさんが急死したため父はウタさんと再婚。トミ子さんを授かった。「トミ子はいつも『ネーネー』と言って寄ってきて、実母を亡くした寂しさを癒やしてくれた」





 山川さんはその後、一時家族と離れ、カマさんの遺骨を抱いて帰郷し、沖縄戦に巻き込まれた。「きっとフィリピンでは平和な生活が続いている」。そう信じて戦渦を耐えたが、待っていたのは両親とトミ子さん、そして山川さんが帰郷後に誕生した末妹の敏子さんの死という現実だった。





 福助さんは艦砲射撃で足に重傷を負い、力尽きた。臨月だったウタさんも思うように動けず、代わりに食糧探しを担った幼い2人の子と共に消息不明になった-。フィリピンから引き揚げてきた親戚はそう打ち明け、「自分の家族を守るのがやっと。手助けできず後悔している」と語った。





 孤児になり、親戚宅を転々とした山川さんは、23歳で結婚すると7人の子に恵まれた。我慢と辛抱を重ねながら築き上げた大家族の日々に幸せを感じるたび、戸籍上存在しない妹たちのことが胸を締め付けた。





 「私がやらないと誰がやる」。約2年前から家裁への戸籍訂正手続きに取り掛かり、フィリピンへの渡航者名簿や写真のほか、叔母の仲間春子さん(89)、叔父の小橋川萬三さんの証言などで妹たちの存在を証明した。





 23日には子や孫と一緒に糸満市の平和の礎へ足を運ぶ。今年は新たに刻銘された58人の中に、トミ子さんと敏子さんの名もある。「戦争がなければ家族は元気に暮らしていたし、私もこんなに哀れしなかった」。妹たちの生きた証しを残し「悔いはない」と言い切る一方で、やり場のない怒りが涙となり、何度も頬を伝った。


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