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需要増で原子力に傾斜強めた関電 原発の行方・第1章(12)

  • 2011年12月2日
  • 05:00
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原子炉格納容器の建設が進む大飯1号機と2号機(右手前)。初号機の美浜1号機に比べ、出力は3・5倍と大容量化した=1976年(関西電力提供)
原子炉格納容器の建設が進む大飯1号機と2号機(右手前)。初号機の美浜1号機に比べ、出力は3・5倍と大容量化した=1976年(関西電力提供)

 1971年1月、関西電力の吉村清三社長(故人)は定例幹部会議の席上、「一刻も早く電力需給の均衡回復を実現するため、供給力の大幅拡充を進めなければならない」とハッパを掛けた。

 当時の主力は石油火力発電。だが、燃料の高騰や大気汚染の問題もあった。吉村社長は量の拡充だけでなく、原子力の比重を高めて質の転換も目指す決意を示したのだった。

 加圧水型軽水炉を導入するため関電は、67年度に米国のウエスチングハウス社に社員を留学させた。後に「12人の侍」と称されるその1人、山崎吉秀元専務(76)は「電力供給の必須条件は安定供給、経済合理性、環境問題。当時の評価では、原子力が極めて優れていた。『これからは原子力の時代や』というわけだった」と振り返る。

 関電は57年、9電力会社で初めて原子力部を創設。運転開始をめぐっては東京電力の福島第1原発と先陣を争い、美浜原発1号機(福井県美浜町)が先に運転開始にこぎ着けた。念願の大阪万博会場への試送電も果たした。

 一橋大大学院の橘川武郎教授(エネルギー産業論)は「電力業界の技術革新は関電から始まっている。石炭を油に変えたのも、新鋭火力を入れたのも、原子力の導入も早い。東電に対するライバル意識もすごくあった」と関電の“進取の気質”を解説する。

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 アイゼンハワー米大統領が53年、国連演説で原子力の平和利用を宣言すると、日本も原発開発にかじを切った。高度経済成長期を迎え、電力需要は年々高まっていた。

 関電も原子力の時代に突入した。60年代、若狭湾一帯に建設地を求めて次々と着工。70年の美浜1号機の営業運転開始を皮切りに同2号機(72年)、高浜1、2号機(74、75年)、美浜3号機(76年)、大飯1、2号機(79年)と稼働した。

 「技術力が一人前にならんうちに、とにかくプロジェクトを追いかけていた時代。電力需要が待ってくれなかった」と山崎元専務。エアコンの普及などで夏場の需要はピークが高まり、ベース電源の確保や、燃料の多様化による供給安定化が求められた。

 加えて、73年には第1次石油危機が国民生活を直撃し、石油に替わるエネルギーの確保の必要性が叫ばれた。

 政府は75年策定の長期エネルギー需給計画で、原発の規模を73年度の230万キロワットから85年度には4900万キロワットに増やす目標を掲げた。

 関電は着実に建設を進めるだけでなく、短期間のうちに設備を大容量化した。美浜1号機の出力34万キロワットに対し、大飯1、2号機はともに約3・5倍の117・5万キロワット。80年度末の原発の設備容量は566万8千キロワットで、総発電設備容量の約24%、発電電力量の約32%を占めていた。

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 関電は70年代から京都府の旧久美浜町(現京丹後市)や石川県珠洲市などでも原発新設を探ったが、住民の反対運動で立地は進まず、全11基が嶺南に集中する結果となった。

 2010年度の関電の発電電力量は、他電力からの買電を含め原子力が737億キロワット時で、全体の44%を占める。関電単体では原子力が5割を超える。9電力会社で最も比率が高い。

 しかも、関電の原発は2基がセットで新増設された例が多く、双子型のプラントは合理的な構造といえる。「1サイトに同じ型の原発を4基程度建設するのが運転や保守には最も効率的」と指摘する専門家もいる。

 ただ、東京電力福島第1原発では、事故が起きた際に被害が広がり、収束にも時間がかかるという、集中立地のリスクの大きさを露呈した。

 原発の草創期、「(原子力への傾斜を強めることに)社内で警戒や不安は、はっきり言ってなかった」と山崎元専務。しかし今、11基中8基が停止し、再稼働は見通せない。2月には全基が止まる。安定供給を追求してきたはずが、冬場の電力需給は綱渡りだ。


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