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敦賀半島は多様な炉の「実験場」 原発の行方・第1章(9)

  • 2011年11月29日
  • 05:00
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敦賀半島の先端部で建設が進められた高速増殖炉「もんじゅ」=1986年9月、福井県敦賀市白木(原子力機構提供)
敦賀半島の先端部で建設が進められた高速増殖炉「もんじゅ」=1986年9月、福井県敦賀市白木(原子力機構提供)

 沸騰水型軽水炉(BWR)の日本原電敦賀1号機(福井県敦賀市)。加圧水型軽水炉(PWR)の関西電力美浜1号機(同県美浜町)。敦賀半島で1970年、いずれも国内初となる二つの型の商業炉が営業運転を始めた。

 79年には国家プロジェクトとして設計から建設まで日本独自の技術で開発した動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の新型転換炉(ATR)「ふげん」が本格運転入り。

 そして86年4月、敦賀市白木で高速増殖炉(FBR)「もんじゅ」の建設が始まった。プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を使い、消費した以上の燃料を生み出す「夢の原子炉」とのふれこみだった。

 「東の東海村、西の敦賀」と表現するのは、もんじゅ建設所長を8年近く務めた菊池三郎原子力研究バックエンド推進センター理事長(70)。日本で初めて原子力による発電に成功し、66年に国内初の商業用原発が運転を始めた茨城県東海村と並び、敦賀は「原子力の研究開発にパイオニアとして取り組んできた」と強調する。

 世界に例がないほど多様な炉が集中する敦賀半島。ときに“壮大な実験場”とも呼ばれる。

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 仏の名前を冠した二つの原型炉は、資源が乏しい日本にあって、使用済み燃料を再処理して有効活用する核燃料サイクルの研究開発が目的。ATRは、本命であるFBR実用化までのつなぎ的な位置付けだった。

 ふげんが78年3月に初臨界を達成した当時、西村弘所長(59)は建設事務所の保修課にいた。起動試験中、タービン建屋で「原子炉の熱が伝わった温かみを感じた」。現場で味わった感激を今も覚えている。

 88年、ふげんの使用済み燃料を再処理したMOX燃料が再び装荷され、核燃料サイクルの輪を完結した。「自主開発のプラントの技術的な成立性を実証できた」と西村所長は胸を張る。

 もんじゅの建設当時を振り返り「夢が現実になっていくという実感があった。日本が誇る先端技術がここから生まれていくんだと思った」と語るのは向和夫前もんじゅ所長(64)。原子炉格納容器が組み上げられていく様子を日々眺め、使命感をかみしめていた。

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 研究炉の敦賀市誘致が決まったのは、矢部知恵夫市長(故人)の時代。74~75年に市長公室長を務めた元市職員の淵田嘉二郎さん(89)は「どうせ安全なら研究炉をまとめて持ってきて、国際的な研究地になったらいいという考え方だった」と打ち明ける。FBR建設決定前の75年前後、誘致担当の市幹部が動燃の招きでフランスの高速炉フェニックスを視察していたという。

 国の働きかけも強かった。特にもんじゅの誘致には、77~78年に科学技術庁長官、原子力委員会委員長も務めた本県選出の熊谷太三郎参院議員(故人)が積極的だった。

 これに対し「よそでは受け入れるところがなく、いったん建設して受け入れられる場所に立地が集中した」とみるのは「高速増殖炉など建設に反対する敦賀市民の会」の吉村清代表委員(86)。「ありとあらゆる日本の原発の見本市みたいなものだ」と皮肉る。

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 95年8月、国は政策変更してATRの実証炉建設から撤退。あおりを受けたふげんは、2003年に運転を終了した。現在は「原子炉廃止措置研究開発センター」の正式名称が示すとおり、廃炉技術確立の先駆者としての役割が託されている。

 もんじゅは95年12月、ナトリウム漏れ事故を起こし14年間以上停止。昨年5月にようやく運転再開したが、国は「抜本的な見直し」を打ち出し、先行きが再び見えなくなっている。

 商業用軽水炉2基は高経年化(老朽化)の不安を抱えながら、国内初の40年を超えた運転に踏み出している。

 パイオニアは国策の波を受けつつ、新たな課題にもいち早く直面している。


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