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「安全前提」3原則掲げ県益確保 原発の行方・第1章(7)

  • 2011年11月25日
  • 05:00
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日本原電敦賀原発1号機を視察する中川平太夫知事(左)=1981年12月18日、福井県敦賀市明神町
日本原電敦賀原発1号機を視察する中川平太夫知事(左)=1981年12月18日、福井県敦賀市明神町

 「挙県一致、大いにこの施設を歓迎し、万全の協力体制を整え本県への設置を期する」。福井県議会は1962年3月、原発誘致を決議した。退席した社会党議員を除く全会一致。北栄造知事(故人)の積極姿勢に呼応した。県と県議会は一体となって原発誘致に動きだした。

 67~72年の5年余で、若狭湾には9基が続々と着工した。「原子力はバラ色の社会をもたらしてくれる」と思った時代。県は企業誘致の感覚で原発立地を進めた。

 北氏を破り67年、中川平太夫知事(故人)が初当選したが「9基体制」のレールは既に敷かれていた。革新系の支援も得ていた中川氏は当初、新たな増設には否定的だった。72年の関電大飯1、2号機の建設をめぐる紛争後、誘致の動きは一時収まってもいた。

 ところが、建設を求める声は再び強まり、姿勢転換を余儀なくされた。「中川氏は熱心な地元や県会の流れは止められんと思っていたようだ」と県企業管理者も務めた池田俊男元県議(87)は語る。

 建設の事前調査を認める一方、中川氏は77年9月、▽安全の確保▽住民の理解と同意▽地域の恒久的福祉の実現―という「原子力3原則」を打ち出した。安全性確保を前提に、地域振興も求めていく方針を明確にしたのだ。

  ■  ■  ■

 70年代半ば、高速増殖炉建設や敦賀2号機、高浜3、4号機の増設を求める動きが活発化していた。電力事業者は地元に根回しし、市町は誘致を望んだ。国や国会議員の働き掛けもあった。

 一方で、トラブルや事故隠しが相次ぎ、電力事業者に対する不信が強まった時期でもあった。

 石井佳治元県出納長(70)は「財政悪化や出身である嶺南自治体の要望、突き上げがあり、増設を進めざるを得ない状況だった。安全確保と反原発の世論を踏まえ、中川氏は3原則を打ち出したのだろう」とみる。

 「中川氏が先頭に立って誘致した原発は一つもない。ただ、引き受けるからには財政的にプラスにつなげなければあかん、という考えだった」と語るのは池田氏。実際、電源三法交付金や核燃料税の制度化に取り組んだ。

 3原則をてこに安全と地域振興を国や事業者に求め、「県民益」につなげるという枠組みを作り上げたのだった。

 池田氏は県の課長として中川知事、矢部知恵夫敦賀市長(故人)のソ連訪問に同行した際、高速増殖炉建設をめぐり2人が交わしたやりとりを覚えている。「市町長は先にウンと言ってしまうから、あかん。後になっていくら(地域振興を)言うてもあかん」と中川氏は言ったという。

 もんじゅや大飯3、4号機の建設同意と引き換えに中川氏は、福井臨工(現テクノポート福井)の石油備蓄基地、上中町(現若狭町)の若狭中核工業団地といった地域振興策を引き出した。

 80年代に入り6基が次々着工した。大飯3、4号機の増設を認めた85年、現在の「15基体制」が事実上できあがった。

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 「課題も事故もあったが、原発に頼るしかないという国のエネルギー政策に協力してきた」。中川氏の後を受け、87年から4期務めた栗田幸雄前知事(81)はこう振り返る。

 知事就任時、既に15基体制だった。91年に美浜2号機細管破断事故、95年にはもんじゅのナトリウム漏れ事故も経験。3原則を根幹に据えつつも「安全、安心の確保」は比重を増した。敦賀3、4号機増設計画をめぐっては、安全性とともに「そんなに集中してどうか」と悩んだ。

 94年と2000年の2度、15基体制を取り巻く現状と課題を3原則の視点から総括した。「原発に対する国民の信頼確保が最も重要」とし、総合的、計画的な地域振興の必要性も訴えた。

 長い議論の末に02年、栗田氏は自身として唯一の増設の“ゴーサイン”を出した。「15基体制維持」という枠をはめて。


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