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反増設運動が拡大、安全性も監視 原発の行方・第1章(6)

  • 2011年11月23日
  • 05:00
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敦賀原発3、4号機の増設反対を求める21万人の福井県民署名の第1次分を栗田幸雄知事(手前左)に提出する原発反対県民会議のメンバーら=1994年9月12日、福井県庁
敦賀原発3、4号機の増設反対を求める21万人の福井県民署名の第1次分を栗田幸雄知事(手前左)に提出する原発反対県民会議のメンバーら=1994年9月12日、福井県庁

 1976年7月、社会党系の福井県労働組合評議会(県労評)や県内各地域の市民団体を組織化し、全県的な運動を展開する「原子力発電に反対する福井県民会議(原発反対県民会議)」が誕生した。「これ以上の原発はもうごめん」のスローガンを掲げた。

 当時、県内では商業炉6基が稼働し、新型転換炉を含め3基が建設中。敦賀市には高速増殖炉「もんじゅ」の計画が浮上し、高浜3、4号機増設計画も持ち上がるなど、原発集中化の勢いが強まっていた。

 「各地の小さな団体では推進の流れを止められなかった。全県的な運動で、いかに世論を大きくするかの一点だった」。結成時から携わってきた小木曽美和子事務局長(75)は思い起こす。

 同会議は、その後の県内の反原発運動をリードする存在となった。

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 70年の日本原電敦賀1号機、関西電力美浜1号機を皮切りに原発が次々と運転を始めると、事故やトラブルが相次いだ。敦賀1号機は放射性希ガスが大量に放出され、美浜1号機では蒸気発生器細管からの放射能漏れが続いた。それまで歓迎ムード一色だった地元でも、原発に対する不安が高まった。

 同会議に結成時から参加する「高速増殖炉など建設に反対する敦賀市民の会」の吉村清代表委員(86)は「国や事業者は誘致の際に『放射能は一滴も漏らしません』と言うとったのに、運転当初は放射能がダダ漏れやった」と話す。

 同会議は既存原発の安全性監視、新規増設の反対、もんじゅ建設反対を活動の三本柱に据えた。

 77年には高浜3、4号機増設に反対する10万人の署名を県に提出。81年の敦賀1号機放射性廃液漏れ事故では、原電の事故隠しを福井地検に告発した。関電の原発は蒸気発生器の細管損傷が止まらず、危険性を訴え、運転差し止め訴訟も起こした。

 もんじゅに対しては85年、設置許可無効などを求め福井地裁に提訴。その後20年にも及ぶ法廷闘争を繰り広げた。

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 同会議は、社会、共産両党が“共闘”するという全国的にも珍しい反原発組織だ。時には、中央の党方針が運動に影を落とすこともあったが「社・共が互いに補完し合い、住民と一緒に運動してきた」と、反対運動に加わっていた共産党の猿橋巧・福井県おおい町議(57)は語る。

 反対運動が市民に広がりを見せた最盛期は、94~95年の敦賀3、4号機増設に反対する署名活動だった。組織の枠を超えた「草の根連帯」という運動で約21万3千人分を集め、当時の栗田幸雄知事に提出した。知事から「重く受け止める」との発言を引き出し、2000年まで計画を白紙化させた。

 既存の原発の安全性にも厳しく目を向けた。事業者の動きを監視し、自治体にも注文を付けた。県の岩永幹夫原子力安全対策課長は「蒸気発生器細管の違法施栓など県民会議の指摘で判明した事案もあった。(指摘を通して)県が事業者に対し厳しい姿勢になったのは間違いない」と評する。

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 35年の運動は何をもたらしたのか。「さらなる増設の可能性があった中で、歯止めを掛けた働きは大きい」と評価するのは原子力資料情報室(東京)の西尾漠共同代表(64)。全国最多の原発が集中する最前線で、労組や政党、市民が力を合わせ、長年にわたり存在感を示してきたと強調する。

 ただ、結果として「15基体制」ができあがり、もんじゅは事故の長い空白を経て運転再開した。

 「圧力をかけ、増設の手続きを遅らせることしかできなかったという見方もある。全国で新規立地が難しくなり、結局は本県など既存の立地地域にしわ寄せがいく形になってしまった」と小木曽さん。忸怩(じくじ)たる思いもある。


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