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反対激化し大飯を二分、町長辞職 原発の行方・第1章(4)

  • 2011年11月19日
  • 05:00
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民家の壁に掲げられた原発反対を訴える張り紙。大飯原発の誘致をめぐり町内は二分された=1972年、福井県大飯町
民家の壁に掲げられた原発反対を訴える張り紙。大飯原発の誘致をめぐり町内は二分された=1972年、福井県大飯町

 1971年5月、「大飯原電反対有志」の名前で「大飯町民に訴える」と題したビラが新聞に折り込まれた。関西電力と福井県大飯町(現おおい町)が2年前に極秘裏に交わした仮協定を取り上げ、関電に一方的に有利な「密約」だと指弾した。

 関電の事業に町が全面協力することに加え、生活用水に使われている佐分利川からの取水を認めていたことが発覚し、波紋が広がった。

 ビラをきっかけに誘致に反対する住民組織「大飯町住みよい町造りの会」が結成された。副会長に就いた桑田宗典さん(88)は「形あるものはいつか壊れる。原発にはいまだに安全性がない。技術的に20年早い」と考えていた。

 賛成派、反対派でビラの応酬となった。時岡民雄町長(故人)は仮協定の破棄を表明したが事態は収まらず、町造りの会は町長のリコール運動を展開。区長役員会も退陣要求を決めた。町長は「これ以上町を二分して争うことを避けたい」と辞職した。

 8月の町長選で、反対派の推す永谷良夫氏(故人)が無投票当選した。永谷町長は10月、進行中の建設工事を一時中止すると町政懇談会の席で表明した。

  ■  ■  ■

 大飯町は原発を地域開発のてこにしたいと考えていた。誘致が持ち上がったころ、町は財政危機と過疎化の二重苦にあえいでいたからだ。

 56年、地方財政促進特別措置法が適用されて財政再建団体に転落。70年には過疎地域に指定された。職員の給与を払えないため、町有林の売却を県に持ち掛けたほどだ。

 時岡忍現町長(74)は64年、家業の金属加工業を継ぐため郷里に戻った。当時「舗装道路なんて一本もない。この町で一生暮らすのかと思ったら情けなかった」という。そんなところへ原発誘致が浮上。「町の発展には大きな“工場”を誘致する以外にない」と考え、推進派の活動を手伝った。

 町議会も大勢は推進派。町内で反対運動が盛り上がった後も姿勢は変わらず、71年11月には議員提案された工事一時中止決議を否決した。

 地元の大島地区には「大島を守る会」が結成され、原発推進請願の署名運動を始めた。ただ、時岡現町長は「反対の人の声は大きかった。あの時分は原発の黎明(れいめい)期で、小さくなりながら誘致を訴えた」と語る。

 一方、町造りの会は学識者を招いて勉強会などを開き、原発の危険性を訴えた。先進地の茨城県東海村へ視察を重ね、関電本店にも何度か足を運んで建設中止を申し入れた。

 県外からは革新系の団体がやってきた。同県小浜市の反対派も運動していた。だが、桑田さんは「よそからの反対はほんまの反対やない。最後に(事故の被害で)やられる者だけで反対するからこそ反対や」と話し、町外の団体とは一線を画していたと強調する。

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 町が二つに割れる事態に中川平太夫知事(故人)があっせんに乗り出した。町民の合意を得て建設を進めるには冷却期間が必要と判断。72年4月に県、大飯町、関電の三者は「平穏に建設を進める」ことを前提に工事中止を決めた。異例の判断だった。

 反対運動は沈静化に向かった。外部からの団体も町を離れ、一時の緊迫感はなくなった。

 「原発建設計画を町の振興計画と切り離して考えてはいけない」と永谷町長は姿勢を“軌道修正”。同年7月、県、町、関電は地域振興協定と原子力安全協定を結び、工事は3カ月で再開された。

 「町長が賛成に回り、町民の8割が賛成。われわれの出る幕はないと手を引いた」と桑田さん。推進、反対派は互いに冷静に議論し、しこりは残らなかったと話す。2人の元町長の行動、決断も「町のため」を考えた末だった。

 地域を分断するような決定的な亀裂は回避された。


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