福井と沖縄、原発と基地のニュースサイト

「万博に原子の灯を」強い使命感 原発の行方・第1章(3)

  • 2011年11月18日
  • 05:00
  • Twitterでシェア0
  • Facebookでシェア0
  • Google+でシェア
  • 0
敦賀原発1号機が初臨界を迎え、中央制御室で握手を交わす日本原電の一本松珠璣社長(中央)とGE社のカートライト東京支社長(左)=1969年10月3日(日本原電提供)
敦賀原発1号機が初臨界を迎え、中央制御室で握手を交わす日本原電の一本松珠璣社長(中央)とGE社のカートライト東京支社長(左)=1969年10月3日(日本原電提供)

 1969年10月3日、国内初の軽水炉として日本原電の敦賀原発1号機(福井県敦賀市)が初臨界に達した。中央制御室で社員、関係者、報道陣が見守る中、制御棒を操作する油井宏平さん(71)=現千葉県柏市在住=が両手で左右のスイッチを動かすと、計器類が一斉に動きだした。拍手と歓声に包まれた。

 日本原電元顧問の油井さんは66年入社。敦賀建設所には68年9月に配属された。既にハード面はほぼ出来上がっていた。「大阪万博に原子の灯を」という目標に運転を間に合わせるため、慌ただしい日々が続いた。

 同時に「資源が乏しい日本で原発がうまくいかないと、日本全体がこける。突破口をつくらなければ日本はしょぼくれてしまう」という切羽詰まった使命感があった。

 初臨界から半年後の70年3月14日午前4時、全ての検査を終えた敦賀1号機は営業運転を開始。中央制御室には「バンザイ」の声がこだました。生み出された電気は、この日開幕する大阪万博へ送電された。

 ニュースで万博会場に原子の灯火がともされた光景を見て、油井さんは「やったぞ」と喜びをかみしめた。エネルギー確保という一番の使命を果たした思いだった。

  ■  ■  ■

 54年、国会では当時改進党にいた中曽根康弘元首相(93)らを中心に組まれた初の原子力予算が成立した。日本学術会議は同年「公開、民主、自主」の原子力3原則を採択。56年には原子力委員会が発足した。「国策民営」による原子力推進に本格的に踏み出した。

 高度経済成長真っただ中の60年代、東京五輪や東海道新幹線の開通で社会は活気づいた。電力需要は急激に高まり、エネルギー確保は大きな課題となっていた。

 ただ「自主」の原則とは裏腹に、政財界は海外からの原発技術輸入を先行させた。国内初の商業炉として日本原電が運転した東海原発(茨城県)は、英国から導入した黒鉛炉。続く敦賀1号機も米ゼネラル・エレクトリック(GE)社製だ。加圧水型軽水炉を選択した関西電力も、米国のウエスチングハウス社から導入した。

 油井さんは当初、運転員らに分かりやすく説明するマニュアルなどをつくるため、GE社から送られてくる設備資料の翻訳、整理を任された。現場には指導のため来日したGEの技術者もいた。

 運転員を離れた油井さんは敦賀1号機の特徴や“癖”を洗い出し、整理した。廃棄物処理や作業員の被ばく低減にもいち早く取り組んだ。“借り物”の技術の課題を自前で克服するという、手探り、苦闘の連続だった。

  ■  ■  ■

 関電は57年、9電力会社で最も早く原子力部を創設した。建設候補地が福井県美浜町に決まると、67年に原発の理論や運転方法を学ばせるため社員を米国に派遣した。後に「12人の侍」と称され、帰国後は建設が進む美浜原発で多くの社員にスパルタ教育を施した。

 吉田俊雄さん(69)=敦賀市=も厳しい教育を受けた1人。「新しい分野に挑戦したい」と希望して69年に美浜に配属されると、昼は原子炉理論、核物理、放射線管理などの講義を受け、夜は午前2時、3時まで自習するという日々が約2カ月続いた。

 教育終了後、吉田さんは1次系配管の洗浄を担当。「とにかく速く、きっちり仕事をするためアイデアを駆使した」と話す。関電も大阪万博への送電が目標で、東京電力の福島第1原発と運転開始の先陣争いをしていた。

 68年に美浜配属となった竹内忠雄さん(72)=同市=は元は水力発電の運転員。水力から火力に重点を移す社の方針に合わせ火力発電所で働いていた。原子炉容器が積み上げられる光景を見ながら「見たことのないものをどうやって動かすか。動かし始めてから行うべき試験などを外国の例をみながら一生懸命準備した」と振り返る。

 美浜原発から万博会場への試送電は70年8月。電光掲示板には「原子力の電気」が送られてきたと表示された。


基地 from 沖縄 カテゴリーニュース

原発 from 福井 カテゴリーニュース

原発 from 福井 カテゴリーニュース

基地 from 沖縄 カテゴリーニュース