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川西誘致は幻に、極秘で敦賀進行 原発の行方・第1章(2)

  • 2011年11月17日
  • 05:00
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かつて原発建設に向けボーリング調査が行われた場所を示す池端久雄さん=2011年10月19日、福井市石橋町
かつて原発建設に向けボーリング調査が行われた場所を示す池端久雄さん=2011年10月19日、福井市石橋町

 1962年春、福井県川西町(現福井市)の海岸に広がる三里浜の一角で、県開発公社によるボーリング調査が進んでいた。

 川西町は県内で最も早く原発誘致に名乗りを上げた。日本原電の東海原発に続く商業用2号炉の建設計画を察知し、熱烈な誘致運動を展開した。候補地に挙げられ、建設の前提となる岩盤の有無の確認が必要となった。

 福井市石橋町の池端久雄さん(73)は農業の傍ら、ボーリング用の大量の水を補給する作業を手伝った。毎日朝夕2回、ドラム缶3本分の湧き水をくんでは牛車で現場に運んだ。「原発がどんなものかなんて、分かっていなかった。ただ、この仕事が町の発展につながるんだと信じていた」

  ■  ■  ■

 56年に原子力基本法が施行。翌57年4月、県は有識者による県原子力懇談会を創設し、京都大の研究用原子炉の誘致に乗り出した。受け入れ先として川西町が手を挙げた。研究炉設置は結局、大阪府熊取町に決まったが、その後も日本原電2号炉の誘致を水面下で働き掛けた。

 高度経済成長期に入っても、農漁村は取り残されていた。当時の山田十左衛門町長(故人)は活性化の起爆剤として原発に着目。町長に引っ張られるように各区長もみんな賛成していった。建設予定地は五つの区にまたがる農林地約165ヘクタール。中でも石橋区は意思決定を町長に一任した。

 一般の町民には現実感の薄い話だった。土地が買収対象となった人も「実際には半信半疑。原発が来れば土地の単価も上がるだろうという軽い気持ちだった」と池端さん。原発そのものへの知識がないから警戒感もなかった。当初は「放射能という言葉すら分かっていなかった」と話す。

 だが調査が進むうちに危険性も知った。町に受け入れを伝えた区長に対し、池端さんは「勝手にそんなことしていいのか。行政はあんたに任せたかもしれんが、命まで預けた覚えはない」と酒席で食ってかかったこともあった。

 ボーリング調査の結果は地元を落胆させた。池端さんによると、深さ46メートルで岩盤に到達したが、立地に必要な厚さには足りなかった。最も熱心だった川西町の原発誘致は幻に終わった。

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 原電は62年6月5日、川西町は建設には「不適当」と発表。同時に、敦賀半島を新たな候補地として調査すると明らかにした。それからわずか21日後、同県敦賀市の立石、浦底、色浜の3区が土地売買に同意し、県開発公社と正式調印を交わした。敦賀半島への誘致が水面下で進められていたのだ。

 北栄造知事は7月の県議会答弁で、他県にも誘致の動きがあったとし「(川西町の)後の候補地がないとなると、本県としては不利な立場になる。下調査がすむまでは秘密にせざるを得なかった」と釈明した。

 敦賀市も県から事前に計画を聞いていた。畑守三四治市長は春ごろ、市議会各会派に誘致への協力を求めた。当時市議だった「高速増殖炉など建設に反対する敦賀市民の会」の吉村清代表委員(86)は「突然の話だった」と語る。

 9月、敦賀市議会は原発誘致を決議。出席した24人中20人が賛成。吉村さんら4人は退席した。

 後発の原発と異なり、用地買収を県開発公社が担うなど県、市を挙げて誘致を後押しした。「県が表に立ち、企業(原電)は見えなかった。地元も安心して地面を売った」と吉村さんは指摘する。

 建設候補地とされてから70年の営業運転開始まで8年足らず。異例のスピードだった。

 原電が73年発行した「敦賀発電所の建設」に、誘致当時は副社長だった一本松珠璣会長(故人)がこう記した。「ある人が『原子力発電所の建設は敷地を決めることが全仕事の半分に相当する』と言ったことがある。一寸(ちょっと)でもその気配があると直ちに住民から反対の火の手が上がる。地元の知事や市長はいたたまれなくなる」


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