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原発誘致で「陸の孤島」脱したい 原発の行方・第1章(1)

  • 2011年11月16日
  • 05:00
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敦賀原発が建設される以前の福井県敦賀市西浦地区の道路。住民は市中心部への交通手段を船に頼るしかなかった=1965年1月(日本原電提供)
敦賀原発が建設される以前の福井県敦賀市西浦地区の道路。住民は市中心部への交通手段を船に頼るしかなかった=1965年1月(日本原電提供)
原発の工事用として架けられた青戸の大橋の建設風景。大島の住民にとっては「夢の懸け橋」だった=1972年1月
原発の工事用として架けられた青戸の大橋の建設風景。大島の住民にとっては「夢の懸け橋」だった=1972年1月

 福井県敦賀市の中心部から約15キロ、敦賀半島の先端に位置する敦賀市立石区。原発が立地する以前は、市街地に向かおうにも道路が未整備で、住民は交通手段を船に頼っていた。「昔はほんまの陸の孤島やった」。当時を知る濵上秋良さん(92)はこう振り返る。

 1962(昭和37)年5月、県内で初の原発であり、日本原電にとっては東海原発(茨城県東海村)に続く商業用2号炉の建設候補地として敦賀半島が浮上した。区長を通じ住民に説明された。濵上さんは「原発ができれば道ができるという期待があった。道路が原電と地元の一番の約束だった」と語る。

 福井県おおい町の大島半島も状況は同じ。今は関西電力大飯原発が建つ半島突端の大島地区は、かつて町中心地に続く陸路はなく、その名の通り“島”のようだった。住民の足は専ら船。74年までは町営の定期船が運航されていた。

 「道路がほしい」「橋が架かる」。原発建設受け入れの第一歩は、住民が願ってやまなかった道路整備と表裏一体で始まった。

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 濵上さんの妻はるさんは19(大正8)年2月、同じ立石で生まれた。しかし戸籍上は「3月」。すぐには役場に出生届を出せなかったためだ。「時化(しけ)で船が出せんかった。街に行くつてがなく1カ月後にしか届けられんかった」

 当時は、街に用事がある集落内の仲間に代理で出生届の提出を頼むことがよくあった。届けるべき子どもの名前を忘れ、提出した人が自分の息子と同じ名前にしてしまったという、笑えない逸話も残っている。

 病気にかかっても漁船で医者に通うしかなかった。船が出払っているときに急病人が出れば、立石灯台に駆け込んで無線で助けを呼んだ。

 原発建設の話が持ち上がった60年代初め、県道が整備されていたのは半島の中ほどにある常宮区まで。常宮から先の立石までは幅2メートル程度の山道で、小型の四輪駆動車1台がやっと通れるほどだった。

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 62年6月、立石、浦底、色浜の3区は原発建設用地の売買契約に調印した。「区長から話が下りてきて、一気に賛成となった」と色浜の遊津三右衛門さん(75)。「不安とか危険だとかいう意見はほとんどなかった。地域が発展していくという期待が大きかった」

 県道として浦底-敦賀停車場線が65年3月に着工、66年7月に完成した。総工費4億7500万円のうち7割超の3億5千万円を原電が負担した。常宮から立石まで延長8・7キロ、幅6・5メートル。半島の先まで一本の道路でつながった。

 念願の道路を住民は「原電道路」と呼んだ。「うれしかった。海がしけても、街に買い物に行けるようになった。それまでは考えられなかった」と遊津さんは当時の喜びを思い出す。

 道路が完成すると、1号機の建設作業員の宿泊を見込んで、自宅を改造して民宿を営む漁師が現れ出した。レジャーブームに乗り、海水浴客や釣り客の宿泊も増えた。

 67年に着工した敦賀1号機は、69年の初臨界を経て70年3月、営業運転を始めた。

 半島の姿、人々の生活は大きく変わり始めていた。

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 おおい町本郷から海をまたいで大島半島へと延びる全長743メートルの「青戸の大橋」。関西電力にとっては原発を造るために必要な橋、原発のできる大島の住民にとっては陸の孤島から抜け出す「夢の懸け橋」だった。

 橋が架かる前、住民の交通手段は船。本郷との間を行き来するため午前2便、午後2便の町営定期船が出ていた。農閑期に小浜市など半島の外へ働きに出る人もいた。国鉄小浜線を乗り継いで職場に通っても、定期船の最終便が午後6時すぎと決まっていたから残業はできなかった。

 大飯原発の敷地造成工事を始める1971年、関電は青戸の大橋を含む延長約10キロの県道赤礁崎公園線にも着工。22億6800万円を投じた。県道だが県の負担は3億円だった。

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 半農半漁の寒村。船に頼る暮らしは不便を極めた。

 病気の際、まずは家庭にある富山の置き薬が頼り。それで済まない場合は船で本郷や同県小浜市などの病院に行った。漁業を営む宮崎一夫さん(73)は「今みたいに船が速くないやろ。病院行くのもえらい目に遭った」と述懐する。時間がなくて船の上で診てもらったり、手こぎの丸木舟で向かう人もいた。

 亡くなっても火葬場はなく、かつては土葬だった。「定期船には死んだ人は乗せられない」からだという。

 「外から嫁が来ることはなかった」と話すのは下西龍太郎さん(77)。「いとこやはとこになるけど、嫁さんにもらう。(大島を)出て行く人もなかったなあ」

 船を使わず半島外へ行くための道路は住民の悲願だった。

 67年、初当選した中川平太夫知事(故人)が大島にあいさつに行くと、住民はこぞって大漁旗を振って迎えてくれたと長男の中川平一県議(63)は聞かされていた。「若狭出身の知事ということで道を造ってほしかったから」だった。

 だが、陳情を繰り返しても切実な願いは実現しなかった。

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 転機が訪れたのは69年1月。約50人の大島地区民が集まった元日の集会に時岡民雄町長(故人)が顔を出し「大島に原子力発電所を誘致したい。原発が来れば念願の道路も橋もできる」と切り出した。

 「なに、橋がかかる?」「道がつく」-。住民には大きな衝撃だった。「ゲンデンって何や」という素朴な疑問はどこかに吹っ飛んだ。

 この日、町長と一緒に大島へ渡ったのは、同町出身の時岡収次熊谷組副社長(故人)。その後、土地売買のあっせんに汗をかいた。

 関西電力大飯原発の建設地は、かつて年貢の取り立てを逃れるため各戸が奥深い山中に持っていた「隠し田」のある辺り。「誰に聞いたんか、土地を売ってくれんかってゆうて来た。一軒一軒田んぼのある家に来た」と下西さんは語る。

 隣の内浦半島では一足早く高浜原発の誘致の動きがあったが、用地交渉は難航していた。原子力部門に力を入れようとしていた熊谷組は、地元出身の時岡氏に白羽の矢を立てたとみられる。土木工事も熊谷組が請け負うことになった。

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 町内では反対運動も起こり、曲折を経て大飯1号機は72年に着工した。

 県道は74年に開通し、大島はついに1本の道路で陸側とつながった。この年、定期船は廃止され、代わって乗り合いバスの運行が始まった。マイカーを持つ住民も次々と現れた。


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