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軍艦旗、戦友から受け継ぐ 最後は自分の棺おけへ

  • 2017年8月15日
  • 09:07
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「利根」の軍艦旗を保管している荒谷さん。「旗は棺おけの中に入れてもらう」と話す=7月、福井県坂井市
「利根」の軍艦旗を保管している荒谷さん。「旗は棺おけの中に入れてもらう」と話す=7月、福井県坂井市

 1944年10月、日米の軍艦など約200隻が集結した「史上最大の海戦」とされるフィリピンのレイテ沖海戦。重巡洋艦「利根」の砲員として、敵戦闘機の銃弾を受けながらも生き抜いた荒谷磨治(まはる)さん(92)=福井県坂井市=の手元には、利根の軍艦旗がある。この世を去った元乗組員たちから受け継いできたものだ。荒谷さんは「軍艦旗には戦没者の魂が入っている。戦友と呼べる人はもうおらず、軍艦旗は自分の棺おけの中に入れてもらうつもり」と話す。

  ■全軍突撃命令■

 41年、15歳で海軍に入隊した。水雷艇「初雁(はつかり)」の乗組員を経て、43年2月に横須賀砲術学校を卒業。その後、高角砲の砲員80人のまとめ役として利根に乗り込んだ。

 米軍がレイテ島に上陸した44年10月20日、レイテ沖に向かう「全軍突撃」命令が下った。「口に出せないが、勝ち目はないと思った」と荒谷さん。艦船を守る戦闘機が圧倒的に不足していた。

 その日、砲員を集め「今度の出撃では絶対に帰れない。今夜は思う存分(酒を)飲め」と訓示した。赤紙で召集された兵隊たちの多くは顔色をなくし、泣きだし、家族の名前を叫んだ。存分に酒を飲んだ兵隊はいなかった。

 19歳で、妻子もいなかった荒谷さんは冷静だったという。「とにかく砲弾が出るよう発火装置をきちんと管理する。それしか考えていなかった」。死の恐怖、生への執着はみじんもなかった。

  ■若狭の看護師■

 同月23日からのレイテ沖海戦では、敵戦闘機が60度の急降下で攻撃を仕掛けてきた。水面ぎりぎりを飛ぶ7機編成の戦闘機は魚雷を放ってきた。「高角砲を使えるのは50度まで。手も足も出なかった」。世界最大級の戦艦武蔵は、なすすべなく沈没した。

 利根も6発の爆弾を受けたという。ドラム缶二つ分ほどの大きな爆弾が、荒谷さんの約5メートル後ろに落ちた。衝撃で4人が海に吹き飛ばされた。しかし爆弾は不発。「爆発していたら、利根は真っ二つに折れ沈没していた」

 荒谷さんは機銃弾を右太ももに受け、シンガポールの野戦病院に運ばれた。空襲のときは「若狭出身」という京都なまりの看護師が、おぶって逃げてくれた。寄港した商船で帰国しようとすると、「絶対ダメ」と言って引き留められた。多くの商船は、日本に着くまでに攻撃を受け、沈没していた。

 「もし今、あの看護師に再会しても、言葉は出てこない。頭を下げることしかできない」と涙ぐんだ。

  ■無傷の人しか■

 レイテで掲げられていた軍艦旗を、戦後保管してきた元信号兵が亡くなり、石川県小松市の元機関兵の手に渡った。荒谷さんと同年兵だったその人も昨年亡くなった。

 入院中、週に1度は見舞いに行った。「同じ話をするだけなのに、会わずにいられなかった」。あるとき荒谷さんは切り出した。「軍艦旗を預かるよ」。すると「持って帰ってくれ」。縦約1・3メートル、横約2メートルの麻製の旗は現在、荒谷さんの手元で、桐(きり)の箱に納められている。

 「海に兵隊が投げ出されても、無傷の人しか助けられなかった。負傷している兵隊はそのまま。地獄だった。でも1時間後には頭が切り替わっていた。どうかしていた」

 さまざまな悲劇を船上から見続けてきた軍艦旗。荒谷さんは「これは乗組員以外持っていちゃいけない。しかし利根の生き残りはもういない。棺おけの中に一緒に入れてもらうよ」。


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