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「研究炉に失敗は付き物」は社会とずれ 夢の終わり~もんじゅ廃炉(2)

  • 2016年12月23日
  • 13:50
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日本原子力研究開発機構敦賀本部の発足を祝う職員。看板は変わっても、組織は変わらなかった=2005年10月、福井県敦賀市木崎
日本原子力研究開発機構敦賀本部の発足を祝う職員。看板は変わっても、組織は変わらなかった=2005年10月、福井県敦賀市木崎

 「規制基準も保安規定も、運転マニュアルも保全プログラムも、軽水炉は多数の知見というベースがある。高速炉はそれがない」。もんじゅ元所長の向和夫氏(69)は、転落の根本原因をこう分析する。「ないからつくるけど、不完全なもの。もんじゅを運用して完全にしようと思っていたが、それが許される社会ではなかった」。研究炉にはある程度の失敗やトラブルは付き物―という技術者集団の考えを優先し続けた結果、社会とのずれは大きくなっていった。1995年12月8日のナトリウム漏れ事故で変わった潮目を「自分たちのサイトに反映できなかった」。廃炉が決まった21日夜の記者会見で、青砥紀身(あおとかずみ)所長はうなだれた。

 初期の運営主体の動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は大学、電力会社、原子炉メーカーなどから専門家を集めたエリート集団。もんじゅは日本の先端技術の粋だった。「夢の原子炉」ともてはやされたが、ナトリウム漏れ事故と、事故時のビデオ隠しが全てを打ち砕いた。世論の反発は収まらず、一番の味方であったはずの電力会社が態度を硬化した。

 折しも同年、電力自由化が始まり、電力会社は「夢」より「現実」路線へ。「80人くらいいた電力からの出向者は、いつしか35人くらいに減った」(向氏)。人手不足に加え、責任体制が不明確になり統率が取れなくなった。

 動燃は2度にわたる改組を経て2005年、「日本原子力研究開発機構」として船出。10年に運転再開にこぎ着けたが、再開の3カ月後に炉内中継装置が落下。後始末のまずさが、また自らの首を絞めた。

 運転再開直前の09年に機器の保全計画が導入されたが装置落下トラブルを起こし、保全計画の見直しは先延ばしに。トラブルによる試験工程変更と保全計画の整合性が取れていないと分かりながら、現場は対応を放置し、チェック機能も働かなかったという。「見直しをやっても仕方ないとの側面はあったが、きちっとした手順を踏むべきだった」。計画導入時、所長として陣頭指揮を執った向氏は悔やんだ。
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 県内の原子力研究者の一人は「原子力機構の問題は閉鎖性」と断じる。そんな組織がようやく「オールジャパンでの改善」を打ち出したのは15年、原子力規制委員会が運営主体の変更を勧告する直前だった。

 まずい組織運営が繰り返された中でも、運転再開を夢見て入った若手職員は少なからずいる。「運転を知らないままの廃炉で、若手のモチベーションは保てない」と関係者は危惧する。

 もんじゅ保全担当の20代男性職員は、大学の研究で核燃料サイクルの重要性を知り「原子力機構でサイクルの実現に貢献したいと思っていた」と明かす。しかしもんじゅの運転を見ることなく廃炉宣告を受けた。

 「燃料が入っている間は今の仕事と変わらない。粛々とやるべきことをやる」。決意の一方で「自分としては、その後の廃炉研究ではなく、他の部署、他の拠点で高速炉開発の研究を行いたい」とも思っている。


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