原子力テクノロジーの開発の歴史

そもそも日本は、天然資源や再生可能エネルギー源に恵まれていません。そのため1954年以降、原子力が注目され始めました。ちょうどその年、1954年度原子力エネルギー法が可決されました。ちなみに米国では、この法律は、原子力の平和利用を目指す試みに再度注力することを目的としていましたが、それはほぼ失敗に終わりました。しかし日本では、1954年に資金を原子力へ割り当て、その翌年、原子力エネルギー法が施行されました。 

MATSUKAWA_Geothermal_power_station_Iwate,JAPAN

当初日本は、民間用原子力について英国に支援を求めました。国内初の原子炉は東海1号機で、1961年初旬に建設が開始され、1965年に完成しました。この原子炉は1998年まで、東海の発電所で操業を続けました。この原子炉が限界だとわかった時、米国の設計による軽水炉に注目しました。福島第一原発の1号機は、ゼネラルエレクトリック社製の沸騰水型原子炉でした。建設は1967年に始まり、1970年から商業用供給を開始しました。

その後、日本は独自の設計および製造技術を開発し始めました。世界原子力協会が発表した論文によると、日本は1970年代の終わりまでに自国なりの国内原子力生産をほぼ確立させました。原発では、当初いくつかの問題が起こりましたが、1980年代半ばまでには業績を向上させ、世界水準に到達するようになりました。 

1999年、東海村の燃料施設の作業員らが、純度18%以上のウラニウムを高速実験用に準備していました。その時、彼らは攪拌曹内にウラニウムを入れすぎ、致命的な量に達してしまったのです。そのため、作業員らは放射線を浴び、地元住民は避難させられることになりました。国際原子力機関は、この事故を「人的ミスであり、安全原則の重大なる過失」によるものとしました。

日本国内では、それまでの慣習的原子力プログラムにも、問題の一因がありました。これは地震による停電が、大半の要因となっています。2002年、規制機関は東京電力が安全に関する文書を偽造したかどで告訴されたことを受け、同社にその原子炉(合わせて17基)を閉鎖させました。しかし、同社は2005年に操業を再開しています。 

2005年、宮城南部地震により、女川原発にある1970年製造のBRW 沸騰水型軽水炉)が閉鎖されました。というのも、その発電所が、設計上の許容範囲を超えた揺れを検知したからでした。さらに、2007年7月の新潟県中越沖地震により、柏崎刈羽発電所で大規模な停電を引き起こし、安全設計とは関連の無い機器へ大きな損害を与えました。そして、2011年下旬、大地震と津波が福島第一原発の悲劇をもたらし、政府は彼らの安全方針及び原子力の使用全般について考え直さざるをえなくなりました。自然災害のリスクの大きさが、原子力を安全に商業利用することを阻んでいると言えます。